芸術への高い関心

クリスチャンディオール(Christian Dior)は、フランスの北部に位置するノルマンディー地方にあるグランヴィルで、5人兄弟の2番目として生まれました。厳格な教育を受けてきましたが、とても裕福な家庭で何不自由なく育てられていました。 幼いころから好奇心旺盛だった彼は、父の「外交官になって欲しい」という願いとは裏腹に、アートにとても興味を持っていました。父の希望で政治専門学校に進学するも、クリスチャンディオールの芸術への関心は高まるばかりでした。 そのとき彼に画廊の話をもちかける友人ジャック・ボンジャン(Jacques Bongin)がいました。のちに彼とは永遠の友情で結ばれることとなります。

様々な困難

クリスチャンの父に出資してもらい、1928年ビジネスパートナーと画廊をオープン。シーズンごとに新しいコンセプトの展覧会を開き、それが好評を博して美術詩でも高く評価されます。 しかし、たった4年で行き詰まり、1931年には経営破綻しました。その後の彼はホームレス生活を経験。しかしディオール友人たちは、彼に寝る所や食事を提供してくれました。これも彼の人柄が良かったことが功を奏しました。 しかしクリスチャンにさらなる不幸がおとずれます。結核にかかり、パリより物価の安いスペインへ1年療養のため移住しました。そこで成長した彼はその後パリに戻り、心新たに仕事を見つけ始めます。

訪れるチャンス

そんな中、彼の友人の従兄弟にあたるデッサン画家のジャン・オセヌンが、自分の家具付きのマンションを貸してくれることになります。そこでオセヌンの下、修行を積むことになりました。そこでデッサン画家として成功し、自立した生活を始めます。 デッサンが次々と売れ多くのクチュリエを顧客に持つようになったディオールのもとに、デザイナーになるチャンスがついに訪れます。 顧客の一人であったロベール・ピケ(Robert Picuet)が、ディオールのデッサンに感銘を受け、服飾デザイナーの職を申し出ました。 数年間、ファッションデッサン画家として働いていたので女性をどう美しく見せるか熟知していた彼は、才能を開花し始め、1938年にクチュリエとしてピケの下で一歩を踏み出します。

クリスチャンディオールの誕生

その後、戦争が勃発し1941年にパリに戻るころには、メゾンでアシスタントデザイナーとして数年働くことになりました。しかし彼の中で「独立」を意識するようになり、その構成が徐々に形成されていきました。 そんな中、フランスの大富豪であるマルセル・ブサック(Marcel Boussac)に会うチャンスを得たディオールは、自分が思い描くメゾンを説明しました。 彼は本物のエレガンスを身にまとった貴婦人のためだけに、小さなアトリエを作ろうとしていました。そこでブサックと気が合い、ディオールに出資を約束。こうして1946年12月16日、メゾン「クリスチャンディオール」が誕生しました。

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