ヨウジヤマモトは、デザイナー山本耀司によって設立されたブランドです。1972年、既製服の部門として株式会社Y's(ワイズ)を設立し、1976年には青山のベルコモンズの地下に初の直営店をオープンさせました。当時の隣のショップはコムデギャルソンだったそうです。そして、1977年には東京コレクションにデビュー、そして1981年にはパリのプレタポルテコレクション、翌1982年にはニューヨークコレクションにもデビューし、同時にYohji Yamamotoをスタートさせました。「プレタポルテ」とは、フランス語で「高級既製服」を意味します。 1981年のパリプレタポルテコレクションにはコムデギャルソンも参加。ヨウジヤマモトと共に日本から参加した2つのブランドが、黒を基調したコレクションを披露したことで、「黒の衝撃」と呼ばれる一大旋風を巻き起こしました。その当時のプレタポルテでは、黒を使うことはタブー視されていた、という論調もありますが、必ずしもそうではなく、黒が使われるケースも珍しくなかったようです。それでも、この日本の2ブランドのコレクションはじゅうぶんな衝撃をもって迎え入れられました。また、虫食いのような穴やカギ裂き、ほつれなど、ボロ切れのように見えるディテールから「ボロルック」と呼ばれ、1980年代前半は、一世を風靡するムーブメントとなっていました。 その後、1986年には第4回毎日ファッション大賞を受賞、1988年には株式会社ヨウジデザイン研究所を設立、それ以降、主にパリを拠点にコレクションを展開するようになります。 ヨウジヤマモトは映画との関わりも深いものがあり、2001年には北野武監督作品「BROTHER」の衣装を担当しました。その際に北野がヨウジの服を大変気に入り、「座頭市」「アウトレイジ」など以降の北野作品の衣装はヨウジヤマモトが担当するようになりました。 2003年の12月20日には、ワイズ初の旗艦店を東京、六本木にオープン、さらに2005年6月5日には、イタリアのフィレンツェにあるショッピングモール「The Mall」(ザ・モール)に、国内外を通じて初となるアウトレットショップを開店させました。また、同2005年6月の末には、アメリカでのビジネス展開を見据えたショールームをニューヨークにオープンさせるなど、着々と事業展開をしていきました。 一方、コレクションの部分では、2005年秋冬(2005-2006AW)より「Yデザイン」というアクセサリーラインを立ち上げた他、翌2006年春夏(2006SS)には、メンズのテーラードライン「ワイ(Y)」、2006年秋冬(2006-2007AW)からは「ワイズ・レッドレーベル」(Y's Red Label)、2007年の冬には、真珠のMIKIMOTO(ミキモト)との共同開発によるジュエリーライン「ストーミーウェザー」も発表するなど、こちらも精力的な活動を繰り広げました。 ヨウジヤマモトの世界戦略はその後も留まるところを知らず、2008年の2月、アディダスとのコラボレーションライン「Y-3」のニューヨーク旗艦店をオープン、同年11月、「ホワイトボックス」というショップコンセプトの下、高級ブティックが軒を連ねるフランスはパリのカンボン通りに旗艦店をオープンします。 しかし翌年の2009年10月には、株式会社ヨウジヤマモトは民事再生法の適用を申請、、事実上の倒産をすることとなりました。これは、景気低迷のあおりを受けた売上減少と、海外への積極的な事業展開による資金繰りの悪化が原因だったと言われています。そんな世界屈指のデザイナーズブランドであるヨウジヤマモトの窮地を救ったのは、投資会社インテグラルでした。スポンサー契約を締結して新会社を設立。その会社に事業を譲渡し、チーフデザイナーを山本耀司が務める、という形で早期の再生を図ったのです。 その後は、2013年春夏にはキャリアウーマン向けスーツの「ワイズ・エクスクルーシブ」(Y's Exclusive)、2013年秋冬には「STAY WILD」をテーマに掲げた「レギュレーション・ヨウジヤマモト・メン」(REGULATION Yohji Yamamoto MEN)ほか、続々と新ラインを立ち上げるなどして、再生への歩みを着実に進めてきています。フランスの著名なファッション業界誌テキスタイルジャーナル(Le Journal du Textile)における、業界専門家による人気デザイナーランキングではトップ10に入るほどの、日本を代表するデザイナー、ヨウジヤマモト。不屈の精神でこれからも新たなファッションスタイルを見せてくれるのではないでしょうか。
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