新たな局面へ

世の女性たちの憧れの的であるティファニー(Tiffany & Co.)は1900年代から新たな局面を迎えます。 1902年、ティファニー創始者の息子であるルイス・コンフォート・ティファニー(Louis Comfort Tiffany)は、社内にアートジュエリー専門部門を創設しました。斬新なジュエリーとエナメル工芸品を製造します。 同年、ティファニーの産みの親であり、ルイスの父親であるチャールズ・ルイス・ティファニー(Charles Lewis Tiffany)は副社長のC・T・クック(C・T・Cook)に後を託し、90歳で他界します。 1926年、アメリカ合衆国の政府は、ティファニーが導入しているプラチナの純度基準を、国の公式な基準値に認可しました。アメリカ国内で、ティファニーの影響力がますます高まっていきました。

「ティファニーで朝食を」

1940年には、本社を現在のニューヨーク5番街57丁目に移転させます。1950年「ティファニーで朝食を(Breakfast at Tiffany’s)」の書籍がトルーマン・カポーティ (Truman Capote)の著書で出版され、その後オードリー・ヘップバーン(Audrey Hepburn)主演で映画化されました。 見事なまでのティファニースタイルを披露し一大ブームを巻き起こしたオードリーだけでなく、あらゆるセレブリティが究極のアクセサリーとしてティファニーを選んできました。 アメリカ合衆国のナショナル・フットボール・リーグ(NFL)は優勝チームに与えられるヴィンス・ロンバルディ・トロフィー(Vince Lombardi Trophy)にティファニーが製作したトロフィーを採用しました。もはやアクセサリーのブランドにとどまらず、新境地へと登っていきます。 日本では、1972年に三越日本橋店にティファニー・サロンが開設されました。日本進出を果たします。

ティファニーは新境地へ

1974年、その後の重鎮となるエルサ・ペレッティ(Elsa Peretti)がティファニーに参加し、専属のデザイナーとして作品を発表します。1980年には同じく重鎮のパロマ・ピカソ(Paloma Picasso)も参加し、ジュエリーコレクションを発表しました。 1987年はティファニーの歴史の中でも様々なことがあった1年でした。まず、ニューヨーク証券取引所に上場し社会的信用を得ます。 また、創設150周年を記念して、銀器・ジュエリーの回顧展をアメリカ自然史博物館など名立たる博物館や美術館で開催しました。ティファニーの代名詞ともいえる香水「TIFFANY(ティファニー)」を発売したのも同じ年です。 その後、愛することへの祝福の意味が込められた、オープンハートも発売されました。発売と同時に大ベストセラーになり、現在も人気のあるアイテムは、この時期発表されました。 2001年にはティファニーレースが発表されました。特徴である極細のプラチナとダイヤモンドが織りなす華奢で上品なデザインが人気です。 ヨーロッパ王室にも愛用されたティファニーは、その格式と伝統で、女性たちを虜にするブランドとして君臨し続けています。

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