シャンル再建の立役者

ココ・シャネルが亡くなって以来低迷していたシャネルを再建した立役者、カール・ラガーフェルド(Karl Lagerfeld)。 彼は、1933年9月10日にドイツはハンブルグで生まれました。「ラガーフェルド」の本来のつづりは「Lagerfeldt」ですが、商業的に良いからという理由で、意図的に「t」を抜いた「Lagerfeld」としています。 父親が乳製品の事業で成功しており、比較的裕福な家庭で育ったカールは、幼い頃から絵を描くことが得意で、デザイナーに興味を持っていました。

イヴ・サンローランと学ぶ

14歳になる頃には、夢を叶えるためにパリに送り出され、オートクチュール組合が経営する洋裁の学校に入学します。 その学校で一緒に学んでいたのが、実はイブ・サンローランでした。 そして2年後のIWS(国際羊毛事務局)主催のコンクールにおいてコート部門でカールは優勝、その時にドレス部門で優勝したのはサンローランだったと言います。

豊富な経験

17歳の時にはピエール・バルマン(Pierre Balmain)のアシスタント、20歳でジャン・パトゥ(Jean Patou)のアーティスティックディレクターを務めたほか、シャルル・ジョルダン(Charles Jourdan)、ヴァレンティノ(Valentino)などを渡り歩いて、若くして着々と経験を積み上げていったカール・ラガーフェルド。 ですがそこでオートクチュールのあり方に疑問を感じ、イタリアに渡ってフィレンツェで建築や絵画、彫刻などを学びます。 イタリアから戻ってフリーで活動していたカールに、クロエ(Chroe)から声がかかったのが1963年のこと。 ヘッドデザイナーに就任すると、さらに2年後、フェンディ(Fendi)のデザイナーに就任、そしてシャネルのデザイナーに抜擢されたのが1983年のことでした。 それ以降シャネルでは、アパレルデザインの他、サングラスやバッグなどの人気商品も生み出しました。 また、シャネル意外にフェンディ、クロエ、そして自身の名を冠するブランドの4つのデザイナーを兼任しており、圧倒的なパフォーマンスを見せつけて、「モード界の帝王」とまで呼ばれるようになったのです。

数々の逸話

現在でも、彼抜きでファッション業界は語れないほどの存在感を放つカール・ラガーフェルドには、数々の逸話が残されています。 自身が大好きだと公言しているクロムハーツ(Chorme Hearts)については、「男が身に着けて許されるジュエリーはクロムハーツくらいなものだ」として、全てのリングを所有していると言われています。 また、2000年の秋、エディ・スリマンが手掛けたディオールオム(Dior Homme)のスーツを見て衝撃を受けたカールは、「どうしてもディオールオムのスーツが着たい」と、13ヶ月で40kg以上の減量に成功したというのも有名な話です。 その後、写真家でもあるカールは、クリス・ヴァン・アッシュに引き継がれたディオールオムのキャンペーン撮影を引き受けています。 また、モード界に君臨する大御所であるが故、様々な方面から声がかかるのも、カールならではでしょう。 音楽業界からは2003年、世界三大ピアノメーカーのひとつ、スタインウェイ&サンズの創業150周年記念モデルのデザインを依頼されたこともあります。 その他、テディベアの老舗、ドイツのシュタイフ(Steiff)社とコラボレーションしたテディベアを作ったほか、コカコーラとのコラボレーションでは、コカコーラライトのボトルデザインを担当したり、カール自身のシルエットが描かれたアルミ缶ボトルをフランス限定発売するなどしています。 2014年には、バービー人形とのコラボレーション作品「バービーラガーフェルド」が999体限定で発売されています。 これは、黒いサングラスに黒いジャケット、白くて襟の高いシャツという、いかにもカールらしいコーディネートが特徴的なバービーとなっていました。 さらに驚くべきことに、UAE(アラブ首長国連邦)のドバイ沿岸に建設される人工島「イスラ・モーダ」のデザインも担当することが決まっています。 「イスラ・モーダ」とはイタリア語で「ファッションの島」を意味しており、3つの高級ホテルや150の居住ヴィラの他、様々な高級ブティックが立ち並ぶリゾートアイランドになる予定です。 そんなカールももはや80歳を過ぎ、シャネルを辞任するのではないかという噂がありますが、今のところは詳しくわかっていません。 ですが「成功の理由は、過去に価値を見出さず、常に新しいアイディアを生み出すこと」と語っているように、常に前を見て新しいことを考え続けることだけに心を砕いてきたカール・ラガーフェルドですから、今後もなんらかの形で新しい物を創造し続けていくのではないでしょうか。
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