ココ・シャネルの幼少期

シャネルの創設者であるココ・シャネル(Coco Chanel)、彼女の本名は、ガブリエル・ボヌール・シャネル(Gabrielle Bonheur Chanel)と言います。 彼女は1883年に、フランス南西部オーヴェルニュのソミュールにある救済病院で生まれましたが、11歳という早い時期に母親を病気で亡くし、やがて行商をしていた父親にも捨てられ、孤児院や修道院で育ちました。 18歳で修道院を出た後は、洋品店でお針子の仕事をしながら、ラ・ロレンドというショーパブで歌うようになり、人気を博していました。 「ココ」の愛称は、その時に歌っていた歌「Qui qu'a vu Coco dans le Trocadero(トロカデロでココを見たのは誰?)」にちなんで付けられたものです。 しかし、実力ではなく客寄せとしてステージに立たされていたことを知ったココは、歌手の道を断念します。

上流文化に囲まれた環境

そして、その当時恋人であった裕福な将校エティエンヌ・バルサンが郊外に持っていた牧場で過ごすこととなります。 上流階級のエティエンヌ邸での生活は、ココにとって決して悪いものではありませんでした。 暮らしに困ることはない上、上流の文化に触れる機会や社交の場に出る機会も多く、彼女はその中で多くのものを学び、上質な価値観や知性を身に着けていきます。

シャネルの始まり

その中で彼女は、帽子作りに興味を持ち、自分で作るようになっていました。その作った帽子が周囲に大変好評だったこともあり、お店を出すことをすすめられます。 その時に出資の話を持ちかけたのは、実はエティエンヌ・バルサンではなく、そこで知り合ったイギリスの実業家アーサー・カペルでした。 その時代は、女性が働くものではないという考えが主流で、エティエンヌも例外ではなかった中で、アーサーはありのままのココを受け入れて、彼女の支えとなったのです。 それが100年以上続く世界的ブランド「シャネル」の始まりでした。そして、帽子から洋服へと創作のフィールドを広げていき、1915年には洋服も取り扱う「メゾン・ド・クチュール」をオープンさせたのでした。 その後まもなく、最愛の人であったアーサー・カペルを事故で失い、イギリスのウェストミンスター公爵や、アメリカ人イラストレーター、ポール・イリブなどと男性遍歴を重ねていきますが、いずれも、階級格差からのすれ違いや、病死などによって、長くは続かなかったと言います。

世界恐慌と世界大戦

1929年に入ると世界恐慌が起こりました、それによって、女性たちも働くことを余議なくされ、労働者たちが権利を守るためストライキを起こすなど、世界経済が混迷を極めるようになります。 もちろんシャネルでもそれは同じでした。さらに1939年には第二次世界大戦も勃発。「今の時代はもう、女性たちが服に構っている場合ではない」と言い残して、ココ・シャネルはブティックを閉じ、ファッション業界から姿を消したのでした。 その後およそ15年間、ココがどうしていたかの詳細はよくわかっていません。ですが、第二次世界大戦中、ドイツ人将校や諜報機関の人物と親しくしていたことから、1944年にはシャルル・ド・ゴール率いるフランス軍に逮捕されてしまいます。 幸いにも、かねてから友人だったイギリス首相チャーチルの計らいで釈放されますが、その後10年間、スイスに亡命生活を送っていたそうです。第二次大戦中のココは、ドイツのためにスパイ活動をしていたのではないかなどの憶測が飛び交っています。

シャネルのカムバック

そして1954年、およそ10年に渡る亡命生活からパリに戻ったココは、ファッション界にカムバックを果たします。 その10年の間に、女性の社会進出が目覚ましく進んでいたアメリカでは、特に熱狂をもって受け入れられました。翌1955年には、過去50年間で最も影響力を与えたファッションデザイナーとして、モード・オスカー賞を受賞しています。

愛されるココ・シャネル

それから1971年、住まいとしていたホテルリッツの部屋で亡くなるまで、女性が自立し、美しく魅力的であるために、ひたすら信念を貫き続けたココ・シャネル。 モード界の女王の死を悼んで行われた追悼コレクションには、多くのファンが駆けつけて大成功を収めたと言います。 「私の人生は楽しくなかった。だから私は自分の人生を創造したの」という名言を残している通り、自分が目指しているもののために、どんな逆境にもめげず、どんな苦難にも立ち向かって「シャネル」という世界を作り上げた生き様に、多くの女性たちが共感するのではないでしょうか。
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