サンローランは、ココ・シャネル、クリスチャン・ディオール、ポール・ポワレらとともに20世紀のファッション業界を牽引した世界的なブランドです。

ディオールの後継者となるまで

創業者のイヴ・サンローランは、アルジェリアの港町オランで生まれ、中流階級の比較的裕福な家庭で育ちます。 幼少期にフランスのパリに引越し、17歳の時にパリのシャンブル・サンディカル・ド・ラ・オート・クチュールファッションデザイン学校に入学します。 ここでの3ヶ月のコースが終了する頃に、IWS(国際羊毛事務局)主催のデザインコンクールに応募し、カクテルドレスを発表し、ドレス部門最優秀賞を受賞します。 このコンクールの入賞がきっかけで、当時VOGUEのディレクターだったミッシェル・デブリュノフがイヴをクリスチャン・ディオールに紹介し、ディオールはイヴの才能に感銘を受け、ディオールの後継者として育てられます。 しかし、ディオールに迎え入れられてから3年、クリスチャン・ディオールが急遽してしまいます。 そして翌年1958年、ディオールの遺志により若干21歳という若さでイヴはクリスチャン・ディオールという巨大メゾンの主任デザイナーに就任します。 普通であれば重圧に潰されてしまいそうですが、ディオール死後のパリでの初コレクションで「トラペーズライン(スカートの裾のラインがちょうど膝にかかるくらいの台形のデザイン)」を発表し、翌日に新聞で見出しに出るほどの大好評を博し、ニーマン・マーカス賞を受賞します。

転機からブランド設立へ

若くして才能を開花させ、順調にキャリアを積み重ねていたイヴでしたが、栄光は長くは続きませんでした。 その後の「ホブル・スカート(裾幅の極端に狭いスカート)」や「ビートライン(ストリート感覚のスタイル)」はエレガンスさがないとして不評、1960年にはアルジェリア独立戦争に徴兵され、イヴはディオールを離れることになります。 しかし、この徴兵はイヴにとっての良い転機だったのかもしれません。 徴兵後の1961年、恋人であったピエール・ベルジェとアメリカの実業家マック・ロビンソンと組み、ここで自身のオートクチュールメゾン「イヴ・サンローラン」を設立します。そしてここから若き頃から天才と呼ばれるイヴの快進撃が始まります。

「ニューモード」の誕生

1965年の「モンドリアンルック(白のミニワンピを垂直と水平にいれたラインによって分割し、分割されたそれぞれのエリアに赤、黄、青の3原色を大胆に取り入れた、アートとファッションを融合させたデザイン)」、1966年の「スモーキングジャケット(男性用のタキシードをアレンジしてクールな女性用のスーツに仕立てあげたもの)」、1968年の「シースルー(今でこそ当たり前のように使われている、肌が透けて見えるデザイン)」、「サファリルック(元々狩猟の時に男性が着る服を女性用のスーツとして改良して、ボタンでは紐を使用し、ベルトでウエストを締めることで女性的なラインを生み出したデザイン)」、「パンタロンスーツ(裾広がりのパンツを取り入れた女性用のスーツ)」など、こうしたイヴが表現した新しい女性のエレガンスは「ニューモード」と呼ばれます。 これらを提案する中で1966年にはイヴ・サンローラン・リヴ・ゴーシュ(Yves Saint Laurent rive gauche)をパリ左岸にオープンし、既製服(プレタポルテ)ラインを始めます。 それ以降も目まぐるしい活躍を続け、1985年にはフランスの最高勲章レジオン・ドヌール勲章、1993年にはデ・ドール賞を授与されるなど、「モード界の帝王」と呼ばれるほどのデザイナーとなり、まさに20世紀を代表するデザイナーへと駆け上がりました。